ホームページが新しくなったのを機に、これから一、二ヶ月に一度位のペースで、エッセイ(といえるかどうか?)をネットでご紹介しようと思い立ちました。私は文を書くのは嫌いではなく、これからのせるものは、何年か前に少しずつ書き溜めておいたものです。
何故書いたかと言うと、5年前に突然病気になり、コンサートをキャンセルしたり、体力が落ちて歌えなくなった時期に何か出来ることはないかと思って書き始めたのでした。

スペインの歌や音楽にまつわることや、遠い日の想い出、その時々の私の想いを、つれずれなるままに書き止めておいたものを、読んで頂ければとても嬉しく存じます。

●第1回 「禁じられた遊び」
●第2回 「バラが花ひらく」 ―― セファルディーの唄
●第3回 クラベリートス(カーネーション)
●第4回 ラ・パロマ(鳩) ―― 出船
●第5回 「死」
●第6回
 アランフエス協奏曲
●第7回 子守唄
●第8回 ラ・ビオレテーラ(すみれの花売り娘)
●第9回 “ 鳥の歌 ”――― カザルスへの手紙
●第10回
ロルカ鎮魂 ――― 13のスペイン古謡
●第11回 追憶

●第12回 孤独―――ファド


13. 我が母の教えたまいし歌

これはスペインの歌ではない。チェコの作曲家ドボルザーク(1841〜1904)の歌である。
詩はスラヴの抒情詩人のものだが、ドイツ語か英語で書かれた楽譜がほとんどで、日本語の訳詞によれば、母が涙とともに歌っていた歌を、我が子に教えましようと言う内容の様だ。メロディーの雰囲気から、この「母」はよき母、お手本になる母、優しさ溢れる母の歌で、スラヴ的な香りがする好きな歌ではあるが、歌うには私には抵抗がある。

何故なら私は母からいわゆる「よきこと」「ほめられるべきこと」人生の指針となるような「素晴らしい言葉」をついぞ言われた覚えがないからだ。
反面教師にしか出来ない母の言葉の数々に、私の記憶は長い間私を苦しめ、そんな母を私は憎み、この人のそばにいると自分も汚されてしまうのではないかと、成人してからは母から逃げることばかり考えていた。

娘時代「母を見ればその娘がわかる」といわれるのが一番辛かった。口を開けば必ず人の悪口、特にいやだったのは父の悪口だった。私は四人兄妹の末っ子で、上の三人は歳がくっついていて、私だけが離れている。ほとんど一人っ子の様だったから母とは密着していた。そんな私が思春期を迎えた頃、母は私に言った。
「あなたが生まれた後、お父様とはずっと夫婦じゃないのよ」と。
何のことかよくわからなかったけれど、二人はいつも別々の部屋に寝ていたし、私を生んだ時の母は29歳だったのだから、夫婦の不仲はかなり深刻だったと思うし、いさかいが絶えない中で私は大きくなった。

いつも父のことを悪く言うので、父のほうが悪いのかと思って、父を憎んだりもした。で、つい父と言い争いをすると母は言った。
「あなたもうちょっと要領よくなさいよ。お父様は朝会社に出かけてしまえばずっと家にいないんだから、いる時だけうまくやっておけばいいのよ。」
これはショックであった。何よりも嘘が一番嫌いな私にとって、この言葉ほど嫌悪するものはなく、こんな見せかけの夫婦のあり方に耐えられなかった。

「どうして別れないの?」と言えば「あなた達のために別れられないのよ」と言う。確かに当時の母は普通の主婦で、別れては食べていけないことを知っていたし、四人の子供を置いて出て行くことも、連れて出て自立する事も全く考えられなかったのだろう。その事はわかっていながら、多感な私には辛い言葉であった。

そんな母は、でもとても美しい人、いや美しい女であった。
小学校の担任の先生が背の高い若くてかっこうのいい先生だったせいか、母は念入りにお化粧をして、ちょくちょく小学校に行った。それが又私には本当に嫌だった。着物しか着なかった母は大変なおしゃれで、垢抜けた色のいい着物を自分で縫って、襟をぐっとぬいて色っぽく着こなしていた。

縦長の鏡台のちりめんの覆いをパラリと手で剥ぐように開け、ぺタリとお尻を落して座りこみ、襟元を胸までひろげて首から胸に、そして背中まで白粉のパフを念入りに叩いていた姿を、私はどんなに嫌な想いで見ていたことか。寝転んで本を読んでいる私の枕元を通る母が残す女の匂いは、白粉の匂いよりももっと強烈に嫌だった。

母を母としてではなく女としか感じられない思春期の娘は「歌」にしか逃げ込む道ははなかった。しかしそれは幸いであった。この母は音楽、それもクラシック音楽が大好きだったから、小さい時から歌が大好きで得意になってうたっていた私を、ただ一人応援し自信を持たせてくれたから。

母は大変モダンな人だった。着物や洋服のセンスが抜群で、当時の銀幕の子役アイドル、‘テンプルちゃん’が着ていた洋服が流行れば、真っ先に伊勢丹で探してきて私に着せた。今でいうポシェットなんか自分で器用に作って私に持たせた。ヘヤースタイルも鏝を使ってクルクルと髪を巻き、私は‘てんぷるちゃん’にならされていた。

様子のいい人、格好のいい人、背の高い人、美人、美男子,東大出、要するにうわべだけのステータスが彼女にとっては大切だった。幼い時は着せ替え人形でも少しは嬉しく得意にもなっていた私も、大人になるにつれて、彼女のこうした上辺志向の派手さに猛烈な反発を感じた。精神的なものが感じられない彼女の言動に辟易して、私だけの歌の世界に逃げていたが、そこだけは彼女が入ってきてもあまり邪魔にはならなかった。

私が歌っていると「ていちゃん、いい声ね〜」と甘ったるい声で語尾を長くひっぱって言う。彼女の声はとても華やかで、いわゆるいい声で、いやもおうもなく私はそれを受け継いでいたようだ。電話でも華やいだ声を出すので、私達の年齢は接近し、いつも私は「お母さん?」と間違えられた。そんな時も私は“私の声は違うのに。お母様みたいに甘ったるくないのに”と内心反発していた。

高校の頃になると、父母会とかでの友達のお母さん達が実にうらやましかった。
静かで地味で、私の母のように華やいで色っぽくなくて「母」らしくて安心していられたから。それに引きかえ母の華やかさが気になって、そういう日はいつも落ち着かず、来てくれなければよかったのにと思っていた。母が普通の家庭の妻や母でなく、例えば、料亭のおかみとか女優とかであったら、どんなにか彼女に合った生き方が出来たことであろうと、私はその頃から思っていた。

親同士がとりきめた結婚で、式の時はじめて隣に座った父の顔を見たという。でもそんなのは当時としては特別珍しいことではないのだが、問題はその後の結婚生活にあった。
父は無口な人だったし家では亭主関白だったから、父と私の親しい会話はなく、父のことはすべて母からきかされたことばかりだから、今となっては事の真相はわからずじまいであるが、新婚当時から、父の芸者遊びの借金のために、母が持ってきたいくつもの嫁入り道具の箪笥の中の着物が、一枚一枚姿を消していったらしい。

間に戦争をはさんで、今度はお米や野菜のために又一枚一枚と消えてなくなり、私が成人する頃には、母の箪笥の中の着物の数はとても少なくなっていた。

育った環境も性格もあまりに違った結婚生活で母の知性は全く成長せず、父への憎しみ(もしかしたら愛の裏返しとしての)の言葉だけが、一番近くにいた私に容赦なく吐きかけられていたのだろう。でも私には母の口から出る人の悪口は、まるで昔話に出てくる‘悪いおばあさん’が背負って帰った大きな葛篭の中から出てくる、恐ろしい大蛇や汚いガラクタのように思えて「この人と一緒にいると私まで汚くなってしまう」と本心恐ろしかった。

晩年の父は私の声楽家としての道のりに非常な理解と援助を惜しまず、あんなに恐かった父も好好爺になり、芸大時代には、神田にあった父の小さな会社に寄るととても喜んでくれて、「登亭」で鰻をご馳走してくれた。家に帰ると私のお酌で「菊姫」(北陸の銘酒。父はこの造り酒屋の長男であったが、家を継がずに親戚にゆずって、今も「菊姫」は立派に大きくなり、いいお酒を造り続けている)を飲みながら嬉しそうにしていた。あの頃が父と娘の一番幸せな時であった。

その父が逝ったのは私がニューヨークで歌っていた時であった。生活のために歌っていたナイトクラブでの契約中だったし、当時(1964年頃)の日本と外国との距離は今の何倍にも当たり、「キトク」との電報が届いても帰ることもできずに歌っていて、追っかけるようにしてきた二通目の電報ではもう「チチシス」とあった。
私は一晩中泣き明かした。優しかった晩年の父の面影ばかり出てきて、菊姫を飲みながら嬉しそうにしていた父を想って涙を流した。数少なかったが、人生を教えられた父の言葉がよみがえった。私は母からは何一つ教訓的な言葉をもらった記憶がなく、精神的な糧となる言葉はすべて父からであった。

悲しみの中でせめてもと思われたのは、外国に出てしまった私がスペインででもアメリカででも成功していたことを、父が知って喜んでいてくれていたことであった。

母はその後も家族や親戚から顰蹙を買っていた。数年の後帰った日本で、父の葬儀のことを姉からきいたが、父がもう今日明日だといわれて病院に家族が集まっていた時、母は姉に「私、ちょっと美容院にいってくるわ。お葬式にはみんなが来るからこの髪じゃまずいから」と言って病院から出ていったと、姉はカンカンに怒っていた。

この話には私も辛い気持になった。母はちっとも変わっていない。相変わらず派手で精神性がなく、尊敬しようと思っても出来ないような言動をしていたのだ。

父の死後、阿佐ヶ谷の家は人手に渡り、母は一番可愛がっていた長兄の家族と一緒に暮していたが、その長兄も思いがけず早くに逝き、そのあとは姉が自宅の近くにアパートを借りてあげて一人暮しをしていた。私が時々そんな母を訪ねると、母は今度は決まって姉の悪口。姉も母の悪口には閉口していた。

その母が85歳になった時、突然脳梗塞で倒れた。その時である。“もう逃げられない” と私は思った。私は末っ子だから、あっちこっち(外国も含めて)放浪して母から逃げまわっていられたが、もう逃げられない、今度こそ逃げられない。これからは私がやらねば。姉が病身で入退院を繰り返していることもあるが、遂に順番が廻ってきた。脳梗塞はあまり重くなかったので、体は少し不自由だがボケてはいないし、口は相変わらず達者である。だがもう一人暮しはさせられない。私の家に連れて帰る事も考えたが、今この人と又一緒に住めば私の精神はもたないだろうし、歌の仕事も出来なくなる。まさに共倒れになりかねない。

だとすれば何とかいい老人ホームを見つけなければ。必死の思いで探しいくつか見てまわったあげく、見かけではなくハートが感じられる古いホームを町田に発見した。
普通は二年位は待たされるのが、母が強運のせいか一年位で入ることが出来た。
私の家から車で20分位なので、それからはなるべく頻繁に母に会いに行った。

ここでも母は周りの世話をする人の悪口ばかり言う。これには私も腹がたち、思わず彼女を叱る。
「もういい加減にしてよ。人の悪口はもうやめなさい。人のことを悪く言えばそれが必ず自分にかえってくるのよ。もういい加減にわかってちょうだい。どこにも嫌な人はいるけど、お世話して下さることをもう少し感謝してよ。お願いよ」母はその時だけシュンとなるが、もう次の時はケロリとしている。

着物から洋服に切り替えさせるのに苦労したが、それでも私が選んで買っていく薄紫のブラウスなんかを結構うまく着こなして、食事時間にぶつかった時食堂を覗いて見れば、まわりは全部おじいさんばかりの真ん中で食べている。席は自由に座るのだそうだ。85歳を過ぎても彼女は相変わらず女であった。もうこの頃は私は母を嫌悪することなく、むしろ可愛いとさえ思えるようになっていた。

訪ねると、本当に嬉しそうにいつも同じことを喋る。それは遠い遠い昔の彼女の娘時代のことであった。彼女の父は株やで、ブローカーのような仕事をしていたらしい。

お金はあるが精神性がないどころか、大酒飲みで飲むとおとなしい妻(彼女の母)を殴る。仲に入った気の強い母までも卓袱台ごとひっくり返されたと言うのだ。

こんな話ははじめて聞かされる話で、母がどんなに辛い娘時代を過ごしてきたか、今になってやっとわかった。その頃から彼女は人を憎んでいたのだ。母の話の中に彼女の夫、つまり私の父の話が全く出てこなかった。
「お父様は暴力振るわなかったじゃない」と私が言っても自分の父とごっちゃになって よくわからない様子。最後の最後まで、娘時代の暗い哀しい思い出ばかりが、彼女のボケた頭の中でぐるぐる廻っていた。

マーちゃんというどうやら仲のよかった妹のことも出てくるのに、私の兄や姉、つまり 私以外の彼女の娘や息子のことももうわからなくなっていて、私だけが「テイちゃん」 という娘として今この時ちゃんと認識している様だった。

私たち兄妹との想い出は今はもう彼女の中で無になってしまったのだろうか。父との長い結婚生活は一体なんだったのだろう。人生の最後になって残るのは、相変わらず彼女が受けたその父の暴力と、それへの恐れと憎しみだけとはあまりに悲しいことではないか。私は、ほんの少しでも私の父つまり彼女の夫への愛のひとかけらでも語ってもらいたかった。

しかしもう遅い。もっと早くに母を身近の人として接していたら普通の会話が出来ただろうに。私は母から逃げまわってばかりいたことを悔いた。あんなに嫌だとばかり思っていた彼女の人への悪口の原点が、その父への強い憎しみにあったことを、もっと早くに知ってあげたかった。いつも女であったことが、夫への満たされない愛の裏返しであったことを考えることが出来なかったのだろうか。あの女女(おんなおんな)した動作を天性の可愛い媚態と感じることが出来なかったのだろうか。

ホームに会いにいくと本当に喜んで、帰るときは「もう帰っちゃうの?」と言いつつも、 階段の踊り場まで歩いて送ってきて、私と一緒に来た‘恰幅のいい、様子のいい’私の 夫に、首を斜めにかしげてシナをつくりながら、階段の手すりに斜めに寄りかかり、小さく腰をかがめていつまでも見送っていてくれた母。母のいいところをもっと沢山もっと早くに見つけてあげていればよかったのに。私は母と同じように憎むことばかり していた様な気がする。

彼女のいいところは「私はこんなにあなた達のことを思っているのよ」とは決して言いもせず、恩にきせるところが全くなかったことである。むしろ逆に、普通では耐えられないようなこと、つまり二人の息子(私の二人の兄)を病気で亡くしているのに、そのことが過去となればすぐにケロリとして「人生はなるようにしかならないのよ」などと言って相変わらず派手に振舞うものだから、いつも周りから顰蹙をかって いたのだけれど、人間である以上どれほどの辛さであったことかと、今になって思うのではもう遅いのであった。
せめてホームに母に会いにいくことが、私が長い間しなかった事の懺悔のような気がしていた。繰り返される母の娘時代の話を聞いてあげることしか出来ない自分を責めながらも、ホームから帰ってくると何故かいつもほっとした。

そんな事が続いていた四年間の末、以外に早く彼女の最後の時が来た。姉の家族と私たち夫婦の希望で、危篤になってからの延命はせずに自然にまかせての、苦しみもあまりなくての安らかな死であった。私は何故かほっとした。あんなに人を口汚く悪く言い、周りの人を傷つけた人も、こんなに安らかに逝かせてくれた神というか仏というか、それらすべてをひっくるめた“大いなるものの寛容”に感謝した。

そうよ。お母様は悪い事は何一つしていないもの。それどころか病気の兄達を懸命に看病しつくしたし、戦争中は一人で食料の買出しに行ってくれたし、父との不仲の中で随分辛い思いをしながら、もしかしたらそれらに負けないために、ケ・セラ・セラ・セラとお洒落をしていたし、私が声楽家になることをあんなに応援してくれていたんだし「丈夫が取り柄よ、殺しても死にません。私はどうでもよし子(母の名前)ですよ、どうせ。」などと言っていた90年の彼女の人生を、私だけはよ〜くわかってあげるわ。最後の最後になってしまったけどね。

母が危篤になってから昼間は病院にいて見守っていたけれど、夜になって大丈夫だと言われて、皆が一旦家に帰ったその次の朝未明に、母は一人で息をひきとった。
孤独な人だったと今更ながら悲しく思う。

朝になって駆けつけた時は、もう灯がともりお線香の香りが満ちた病院の霊安室に寝かされていた。胸の上に組まれた両手がなんと細く美しかったことか。血が通っていない故にまさに蝋のように透き通った白さの手が、これまで見た母の手のなかで一番美しかった。
彼女は‘おさんどん’をして手が汚くなるのが嫌で、一心にコールドクリームを塗っていたし、若かった私の手を見て「いいね〜 テイちゃんの手は本当にきれいで」 などと言っていたから、その手に象徴される長い長い女の人生の最後にこんなにきれいな手になったのかと、彼女の美に対する執念のようなものを、私はその美しい手に見た。

「お母様、とっても手がきれいよ。最後にこんなにきれいな手になれてよかったね」
と私は心の中でつぶやいた……

今年も又やがて暑い夏がきて、お盆が近くなる。今日も暑くなりそうな朝の空を見上げて歩きながら、私は彼女に話しかける。
「お母様、今どうしてるの?もうあんまり人の悪口言わなくなった?一緒にいると辟易してたけど、今はとっても会いたいわ。お母様は本当に人間的な人だった。美しいものの裏側に同時にひそんでいる人間の愚かさや虚栄や、弱さや、醜さなどを偽悪家を装うようにして平気で見せてくれた。だから今、私の中でのお母様はこんなにもいきいきと鮮明な姿をしているのね。お母様は私に何も教えてくれなかったんじゃなかった。人間を裏返して教えてくれたのよね。そして何よりも大きな贈り物を私にくれたわ。それは声。あなたは私に“声”をくれたのよ。本当に有難う、お母様。」

                    (2006年、 母の13回忌に)

この稿をもってエッセイは終わりにさせて頂きます。お読みいただきまして有難うございました。又いつの日にか再開のときを願って。


                                                    


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